僕の実家はひいおじちゃんが自分で建てた、と誰かが言っていたように記憶している古い木造の一軒家で、改築改築を重ねてへんてこなつくりになっている。
吉野川がごく近くを流れているので土手が出来る以前の洪水対策か、玄関も勝手口も階段を3段上がった高さにあるし、勝手口にもうひとつ勝手口があるし、居間より廊下は10センチ、台所は30センチくらい下がっているし、階段がふたつあって1階と2階をぐるぐるまわれたり、土間になっている事務所と、図書室みたいな部屋がB5サイズくらいの小窓で繋がっていて、そこから会話ができたりする。
父親が山内製竹所という竹屋を営んでいて、その工場が実家の左横に並んで建てられている。家の2階と工場は繋がっていて、工場部分にある部屋は納屋みたいな物置みたいな使われ方をしていて、誰のものか、何年前のものか判らない荷物がたくさん置かれている。誰かの鯉のぼりや五月人形、小銭のいっぱい入った赤いからすの貯金箱やなんかを見つけるのが楽しくて、そこで宝探しのようによく遊んでいた。
家の右手には大きな柿の木があって、秋にはたくさんの実をつける。長い竹で柿を採るための器具をつくり、鳥が食べる分をすこし残して採るんだけれど、それでも採り終えるとその実は100個を下らない。その奥に鷄の小屋があり、その背景にはたくさんの紫陽花が植わっている。そこから左手、裏庭には程よい大きさの植木が並び、陽がほとんど当たらないことも手伝ってか黒い羽の、ゆっくり羽ばたく蜻蛉が棲んでいる。いちばん奥のちいさな琵琶の木は、年に5個くらいの実をつける。これはおじさんがちいさい頃、琵琶の種をはき捨てたところに芽が出た、という話を聞いたことがある、と記憶している。
屋根瓦は漆喰で留められていて、窓はそのほとんどが木枠で、鍵はねじまわしみたいなやつで、中にはかからないものもある。屋根の上に布団を敷いて、その上で昼寝をするのが好きだった。台風の日には木枠の隙間から雨水が流れ込んでくるのをガムテープでせき止めるのが楽しかった。
家の右手、柿の木の手前には倉庫があり、ちいさい頃、兄とけんかをすると父親に二人そろって閉じ込められた。その手前には長い竹をまるのまま洗浄したり、染色したりするための細長い釜があり、それを使って父親が趣味で茶碗や湯のみなどを焼いている。
いまも変わらずそこにある、そう想っているその家は
23歳の春、きれいに全焼したらしい。
というのもそのとき
広島から大阪へと引越そうとする最中だったため、
家族が無事なことに安心して帰ることはなく
燃え落ちた焼け跡などを僕はまったく見ていないし、
さびしいとか悲しいとかそういった類いの感情は生まれなかった。
その後のかつて家が建っていた、庭があった場所を見ても、
残された工場部分で仕事をする様子を見ても、
その記憶がまったく定着しないのはどうしてだろう。
僕にとってはそれの存在、不在は大きな問題ではなく、
そこにはそれが確かにあったし、今もあるように想っている。
それだけで十分なんだろう。
かじこが終わる、ということについて
この感じは一体なんなんだろうと考えてきたけれど、
僕にとっての実家のようなものだ、と今は想っている。
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